海外の雑誌で「wabi-sabi interior」という言葉を見るたび、少しだけ居心地が悪い。ベージュの壁、粗い麻のクッション、乾いた枝を生けた花瓶 — それらは確かに美しいけれど、元の言葉が指していたものとは、輪郭がずれている。
「完成」を目指さない
侘び寂び わびさびaesthetic of accepting impermanence and imperfection は、物の状態を指す形容詞ではない。もっと正確に言えば、物と関係を結び直すための、見方の側の姿勢だ。欠けた茶碗を「壊れた」と見るか、「使い込まれた」と見るか。同じ対象に対する、まったく違う読み取り方がある。
千利休の時代の茶の湯では、朝鮮から渡ってきた日常の雑器が、あえて道具として選ばれた。完成された高麗青磁ではなく、歪んだ井戸茶碗。これは「古いからいい」ではなく、型にはまらないものの中に、人の手の痕跡を読もうとする選択だった。
賃貸でもできること
侘び寂びを実践するために特別な道具はいらない。必要なのは所有の仕方の微調整だと思う。
まず、来歴 らいれきhistory / provenance of an object のある物を一つか二つ、手元に置く。祖母から譲られた湯呑み、古道具屋で買った箸置き、旅先で持ち帰った小皿。新品でなくても、むしろ新品でないほうがいい。欠けや擦れが、その物の生涯を物語っている。
SNS 的な誤読について
Instagram で「#wabisabi」を検索すると、整えられた白い部屋が並ぶ。枯れた植物、粗い陶器、薄暗い照明 — どれも美しいのだが、それらは「整えられた不完全さ」であって、不完全さ ふかんぜんさincompleteness を肯定する態度そのものではない。
本来の侘び寂びは、写真映えを前提としない。むしろ、他人の視線から離れた所有の仕方に近い。毎日使う湯呑みの持ち手が、五年かけて少しだけ色を変えていく。その変化に気づいていられるかどうか。
引っ越しと、持ち続けること
賃貸で暮らしていると、数年ごとに引っ越しが来る。家具は最小限に、と教科書には書いてある。それでも、十年経った湯呑みは捨てない。新しい部屋でも、同じ湯呑みで朝のコーヒーを飲む。場所は変わっても、時間は続いている。
侘び寂びとは、結局そういうことなのかもしれない。完成された美を所有するのではなく、経年 けいねんpassage of years / aging と関係を結ぶことの別名だ。
最後に一つ。侘び寂びを体得しようと意気込むほど、かえって遠ざかる感覚がある。十年使った湯呑みが好きだ、それを捨てるのは惜しい、欠けたら直して使いたい — この素朴な気持ちの積み重ねが、結果として侘び寂びと呼ばれているだけ、という順序かもしれない。観念から入るのではなく、手触り てざわりtactile feel; textureから入る。そのほうが、この言葉に馴染みやすい。
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